迷いの中を歩む道

法話

先日、お寺と深くご縁を結んで下さっていた御門徒がご往生なさり、中陰のお参りに伺わせていただきました。

そこで娘さんから「母が入院している中、父までも認知症を患い対応しきれず、やむなく父には入所していただきました」と葛藤を聞かせていただきました。

私達は母が入院したために問題が起きた。父が認知症を患ったため問題が起きたと考えます。

しかし仏様はそれは生まれながらして抱えてきた問題。ずっと先送りし続けてきた問題であると教えてくれているようです。

数年前小倉の伊藤先生からこんなエピソードをお聞かせいただきました。

小学校低学年のお孫さんが家に帰ってきて、おばあちゃんに「おばあちゃんはなんで生きているの」と尋ねてきたそうです。

おばあちゃんは「ワシに死ね言うているのか」と思いながら、「お前はワシの事が嫌いか」と尋ねます。

するとお孫さんが「おばあちゃんの事は大好き。しかし学校に行くと先生たちが、生きている限りは人の役に立たないといけない。あなたたちも人様のお役に立てるような人間になりなさいと指導してくる。しかし家に帰ってみるとあまり人の役に立ってないおばあちゃんがいる。だからおばあちゃんは何のためにに生きているのだろうと思った」と語ってくれたようです。

私たちの頭は「自分が家族のお役に立てている」「会社のお役に立てている」と思えている時はその場にずっと居続けて良いように考える事ができます。

むしろ「自分が居るお陰でこの場が成り立っている」と思える時は、威張ってしまい周りを見下すような気持ちまで起こってしまうものではないのでしょうか。

しかし、年とともにだんだん周りのお役に立てなくなってきて、むしろ周りのご厄介になるようになってくると、「自分は周りのために居なくなった方が良いのではないのか」と考えてしまうかもしれません。

その価値観によって世間の常識は形成されており、学校教育といえどもその迷いの中で行われてゆく部分があるのではないのでしょうか。

しかし南無阿弥陀仏は命が役に立つか立たないかだけで量れる代物でしょうか。それは迷いではないかと呼び掛けて下さっておる事であります。

私たちは南無阿弥陀仏によって迷いから解き放っていただけてもまた迷いに舞い戻ってゆく身ではあります。しかし迷いを迷いと呼び掛けてくださる南無阿弥陀仏に帰するところに、安心して世間の価値観に埋没しながらも従属されない道を歩む事ができるのではないのでしょうか。

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