第四帖第九通疫癘の御文

西念寺の御文箱と蓮如上人 全般

現代語訳

近頃、たいそう多くの人が伝染病にかかって亡くなっております。しかしこれは伝染病によって亡くなるのではなく、生まれてきたものは必ず死んでゆく定めに従ったまでで驚くべきことではありません。しかし私達は伝染病によって亡くなったと妄想し驚きおののいてゆくものです。このように妄想を重ね生死の理を見失い無意味に人生を過ごしてゆく私達の無明の闇を照らし、我をたのめば必ず救うと阿弥陀仏は仰せられております。阿弥陀仏の仰せに従い南無阿弥陀仏と念仏を申す事は、お助け下さる阿弥陀仏の有難さ嬉しさを申し上げるお礼の心であります。すなわち仏恩報謝の念仏というのです。あなかしこあなかしこ。

本文(『真宗聖典』八二六頁より)

当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみなひとおもえり。これまことに道理ぞかし。このゆえに、阿弥陀如来のおおせられけるようは、「末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの、つみはいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくうべし」とおおせられたり。かかる時はいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、極楽に往生すべしとおもいとりて、一向一心に弥陀をとうときことと、うたがうこころつゆちりほどももつまじきことなり。かくのごとくこころえのうえには、ねてもさめても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ともうすは、かようにやすくたすけまします、御ありがたさ、御うれしさを、もうす御礼のこころなり。これをすなわち仏恩報謝の念仏とはもうすなり。あなかしこ、あなかしこ。
延徳四年六月 日

本ブログの立場

本ブログでは皆さんのご先祖が代々お参りしてきたお寺の本堂での葬儀(葬式)をお勧めしています。

世間を生きる私達はそれぞれの立場から離れる事はできません。よって発する言葉はポジショントークを超える事ができないものではないのでしょうか。葬儀の勤め方のアドバイスもポジショントークが含まれているかもしれません。

「みなさんこうしています。」「こちらの方が良いです。」等のアドバイスに本当に根拠はあるのでしょうか。

アドバイスの真偽を見極めるには、歴史に教えられるしかありません。

私達の先祖は何者で何を大切にしてどんなつもりで生きてきて、今私達へ何を願っているのでしょうか。

お手付きのお寺さんに皆様のご先祖の事を教えていただきながら無理のない丁寧な仏事をお勤めいただければ幸いです。

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