第一帖目第十通の御文(後半)

西念寺の御文箱と蓮如上人 御文

現代語訳(抜粋)

さて、当流の者はどのような心で阿弥陀如来をお頼み申し上げればよいのでしょうか。

お答えします。信心を得て弥陀を頼みとしようと思われるならば、まず人間は五十年百年のうちの楽しみである、後生こそが一大事なのだと思って、さまざまな雑行を好む心を捨て、あるいは、物を忌まわしく思う心を捨てて一心一向に弥陀をお頼みお申し上げ、その外の仏や菩薩や諸神などには心をかけず、ただひとすじに弥陀に帰命して、この度の往生は確かであるにちがいないと思うべきです。そして、そのありがたさのあまりには、念仏を申して弥陀が私達をおたすけ下さる御恩を報謝させていただくのがよいでしょう。これを信心を得た姿と申すべきなのです。あなかしこ、あなかしこ。

本文(『真宗聖典』七七〇頁)

そもそも吉崎の当山において、多屋の坊主達の内方とならんひとは、まことに先世の宿縁あさからぬゆえとおもいはんべるべきなり。それも後生を一大事とおもい信心も決定したらん身にとりてのうえのことなり。しかれば内方とならんひとびとは、あいかまえて信心をよくよくとらるべし。それまず当流の安心ともうすことは、おおよそ浄土一家のうちにおいて、あいかわりてことにすぐれたるいわれあるがゆえに、他力の大信心ともうすなり。さればこの信心をえたるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、今度の往生は一定なりとこころうべきものなり。「その安心ともうすは、いかようにこころうべきことやらん、くわしくもしりはんべらざるなり。」
こたえていわく、「まことにこの不審肝要のことなり。おおよそ当流の信心をとるべきおもむきは、まずわが身は女人なれば、つみふかき五障・三従とてあさましき身にて、すでに十方の如来も、三世の諸仏にも、すてられたる女人なりけるを、かたじけなくも弥陀如来ひとり、かかる機をすくわんとちかいたまいて、すでに四十八願をおこしたまえり。そのうち第十八の願において、一切の悪人・女人をたすけたまえるうえに、なお女人はつみふかくうたがいのこころふかきによりて、またかさねて第三十五の願になお女人をたすけんといえる願をおこしたまえるなり。かかる弥陀如来の御苦労ありつる御恩のかたじけなさよと、ふかくおもうべきなり。」
問うていわく、「さて、かように弥陀如来の、われらごときのものをすくわんと、たびたび願をおこしたまえることのありがたさを、こころえわけまいらせそうらいぬるについて、なにとように機をもちて、弥陀をたのみまいらせそうらわんずるやらん、くわしくしめしたまうべきなり。」
こたえていわく、「信心をとり弥陀をたのまんとおもいたまわば、まず人間はただゆめまぼろしのあいだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりと、おもいとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもいて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまわしくおもうこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏菩薩諸神等にもこころをかけずして、ただひとすじに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべしとおもわば、そのありがたさのあまり、念仏をもうして、弥陀如来のわれらをたすけたまう御恩を報じたてまつるべきなり。これを信心をえたる多屋の坊主達の内方のすがたとはもうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明五年九月十一日

参考文献『現代の聖典 蓮如五帖御文』(法蔵館)

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