第一帖目第二通 出家発心の御文

御文箱 御文

現代語訳(抜粋)

阿弥陀如来に救われる人とは

当流親鸞聖人の教えは、必ずしも出家をして僧侶になり戒律を保たなければならない教えではありません。また家庭を捨て欲を捨てなければならない教えでもありません。「人に勝ったか負けたか、得か損か、幸せか不幸かという捕われを超えなさい」と呼びかける阿弥陀仏の呼びかけに頷き、その呼びかけを念じながら生活しなければ、人生が虚しく過ぎ痛ましいものになると受け止めるだけでよいのです。私たちは人に勝つ事、得をする事、幸せになる事が好きではありますが、そのために生まれてきたのではないのです。これらの事さえ頷ければ男性であろうと、女性であろうと。老いていようと若かろうとも救われる事ができるのです。

そして阿弥陀仏の呼び掛けに頷く事、すなわち他力の信心を得た位を『無量寿経』には「浄土に向かう人生と定まり、人生の方向性を二度と見失わなくなった位」と教えられ、『浄土論註』では「正定聚の仲間になった」と教えられるのです。またこの位についた方は死ぬまで人生の意義をまっとうしながら歩むので、臨終に仏様の来迎を期待する必要もなくなるのです。親鸞聖人の和讃に次のようにあります。弥陀の浄土を願うひと 外儀の姿は異なりと 

弥陀の浄土を願うひと 外儀の姿は異なりと本願名号信受して 寤寐に忘るる事なかれ (寤寐ごび)

「外儀の姿」というのは、在家・出家、男性・女性を問わないという意味です。次の「本願名号信受して 寤寐に忘るることなかれ」というのは、様々な罪を犯していようとも。仏教の教えを否定しようとも。罪を犯す事、仏教をないがしろにする事に痛みさえも感じない者でも、心を翻して痛みを感じ懺悔して、このような浅ましい者をお救い下さる阿弥陀如来の本願なのだと深く知って、ふたごころなく如来をたのみとする心が寝てもさめても常に思われて絶える事のないようにしなさいという励ましであります。あなかしこ、あなかしこ。

本文(『真宗聖典』七六一頁より)

当流、親鸞聖人の一義は、あながちに出家発心のかたちを本とせず、捨家棄欲のすがたを標せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむるときは、さらに男女老少をえらばざるものなり。されば、この信をえたるくらいを、『経』には「即得往生 住不退転」(大経)ととき、『釈』には「一念発起 入正定之聚」(論註意)ともいえり。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。『和讃』にいわく、「弥陀の報土をねがうひp762と 外儀のすがたはことなりと 本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」(高僧和讃)といえり。「外儀のすがた」というは、在家・出家、男子・女人をえらばざるこころなり。つぎに「本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」というは、かたちはいかようなりというとも、またつみは十悪・五逆・謗法・闡提のともがらなれども、回心懺悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくいまします、弥陀如来の本願なりと信知して、ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにして、わすれざるを、本願たのむ決定心をえたる、信心の行人とはいうなり。さてこのうえには、たとい行住座臥に称名すとも、弥陀如来の御恩を報じまうす念仏なりとおもうべきなり。これを真実信心をえたる決定往生の行者とはもうすなり。あなかしこ、あなかしこ。
あつき日に ながるるあせは なみだかな かきおくふでの あとぞおかしき
文明三年七月十八日

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