第一帖目第七通弥生中半の御文

御文箱 御文

現代語訳(抜粋)

何のはからいもなく、我が身は十悪五逆の浅ましい身であると深く実感し悲しみ、阿弥陀如来はそのような浅はかな身である私こそを救い取ってくださると心得て、その上で阿弥陀如来におすがりしたならば、かたじけなくも阿弥陀如来は救い取ってくださるのであります。阿弥陀如来が念仏の行者を摂取するとはこの事を言うのです。摂取不捨とは無条件に行者を受け入れて下さる事であります。「あーでないとダメ」「こーでないとダメ」と様々な条件を立て、条件から漏れる人や自分までも排除していく私達人間の心とは異質なお心です。また自己が十悪五逆の身であるとも知らず、十悪五逆の者を排除しようとする心とも異質なお心です。私達が本当に欲している事は自分が無条件に受け入れられている、許されているという安心なのです。阿弥陀如来から自分は無条件に許されていると実感した方を信心を得た方と申します。さてこの上には日常のいかなる時も南無阿弥陀仏と申す念仏は阿弥陀仏に助けていただいたご恩を報謝する念仏であると心得るべきです。あなかしこ、あなかしこ。

本文(『真宗聖典』七六六頁より)

去んぬる文明第四の暦、弥生中半のころかとおぼえはんべりしに、さもありぬらんとみえつる女姓一二人、おとこなんどあい具したるひとびと、この山のことを沙汰しもうしけるは、そもそもこのごろ吉崎の山上に、一宇の坊舎をたてられて、言語道断おもしろき在所かなともうし候う。なかにもことに加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥州七か国より、かの門下中、この当山へ、道俗男女参詣をいたし、群集せしむるよし、そのきこえかくれなし。これ末代の不思議なり。ただごとともおぼえはんべらず。さりながら、かの門徒の面々には、さても念仏法門をばなにとすすめられ候うやらん、とりわけ信心ということをむねとおしへられ候うよし、ひとびともうし候うなるは、いかようなることにて候うやらん。くわしくききまいらせて、われらもこの罪業深重のあさましき女人の身をもちてそうらえば、その信心とやらんをききわけまいらせて、往生をねがいたく候うよしを、かの山中のひとにたずねもうして候えば、しめしたまえるおもむきは、「なにのようもなく、ただわが身は十悪・五逆・五障・三従のあさましきものぞとおもいて、ふかく、阿弥陀如来は、かかる機をたすけまします御すがたなりとこころえまいらせて、二心なく弥陀をたのみたてまつりて、たすけたまえとおもうこころの一念おこるとき、かたじけなくも、如来は八万四千の光明をはなちて、その身を摂取したまうなり。これを弥陀如来の念仏の行者を摂取したまうといえるはこのことなり。摂取不捨というは、おさめとりてすてたまわずというこころなり。このこころを、信心をえたるひととはもうすなり。さてこのうえには、ねてもさめてもたってもいても、南無阿弥陀仏ともうす念仏は、弥陀に、はやたすけられまいらせつるかたじけなさの、弥陀の御恩を、南無阿弥陀仏ととなえて報じもうす念仏なりとこころうべきなり」とねんごろにかたりたまいしかば、この女人たち、そのほかのひと、もうされけるは「まことにわれらが根機にかないたる弥陀如来の本願にてましまし候うをも、いままで信じまいらせそうらわぬことのあさましさ、もうすばかりもそうらわず。いまよりのちは、一向に弥陀をたのみまいらせて、ふたごころなく一念に、わが往生は如来のかたより御たすけありけりと信じたてまつりて、そののちの念仏は仏恩報謝の称名なりとこころえ候うべきなり。かかる不思議の宿縁にあいまいらせて、殊勝の法をききまいらせ候うことの、ありがたさ、とうとさ、なかなかもうすばかりもなくおぼえはんべるなり。いまははや、いとまもうすなり」とて、なみだをうかめて、みなみなかえりにけり。あなかしこ、あなかしこ。 文明五年八月十二日

参考文献『現代の聖典 蓮如五帖御文』(法蔵館)

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