治安は何によって保てるのか?

西念寺の御文箱と蓮如上人 法話

先月、博多駅で30代の女性が元交際相手の男性に殺傷される事件が起こり、またその後もスマートホンの使い方を注意された中学生の女の子が母親を殺害し、さらにお母さんが幼いお子さんを手に掛けると殺人事件のニュースをよく目にした事でした。被害に遭われた方やご遺族の事を思うと大変心が痛む事であります。

お釈迦様は殺人は重い罪、特に親殺しは重い罪。しかしその親殺しよりも重い罪は謗法罪、仏法を聞かない事と教えて下さっております。

普通世間の常識で考えると仏法を聞く聞かないは当人の問題に収まるが、殺人は他人様を巻き込んでいる。よって殺人の罪の方が重たいのではないかと考えるのではないのでしょうか。しかしお釈迦様は全ての罪は罪を罪と自覚できないとこから生まれてくる。罪を罪と自覚実感させる教えが仏法である。よって仏法を聞かない事が一番罪が重たいと教えられているようであります。

ひと昔前、ある方アメリカに旅行に行った時のお話になりますが。ホテルでチェックインする時に宿泊カードを記入していると、最後の欄に「あなたの宗教は何ですか」と問う欄があったそうです。

日本でチェックインの時に宗教まで記載する習慣が無いものですから空欄にして提出したそうです。

すると受付の方がしっかり自分の宗教を記載してくれと指摘してきたそうです。

そこで仏教と書けば良かったのでしょうが面倒に思え「私は無宗教です。無宗教ですから書かなくて良いでしょ」と申したそうです。すると受付の方が「当ホテルは人間を泊めるホテルであって無宗教な者を泊めるホテルではありません。お帰り下さい」と危うく宿泊を拒否されそうになったそうです。

日本では無宗教と言っても大した問題にはなりませんね。むしろ対面する方の宗教に関心を持つ事さえないのではないのでしょうか。しかし海外では相手が何の宗教を大切にしているかという事に強い関心があり無宗教の方は信用されないようであります。よって商社マンなどが日本から海外へ仕事に行く時に先輩から「海外の方はまずあなたの宗教を尋ねて来るから、その時に必ず宗教を上げなさい。無宗教と言うと信用されず商談のテーブルにも付く事ができないぞ」とアドバイスをされるそうです。

なぜ海外では無宗教者に冷たいのでしょうか。結婚した旦那さんのご両親と同居をされておらる女性のお話になりますが、同居をしている姑さんが家のある個所の扉を開けたら開けっ放しにしており、お嫁さんとしてはそれがいつも癇に障っていたそうです。しかし「お母さん開けたら閉めてくださいよ」と言ってしまうと角が立つので、一計を案じて紙に「開けたら閉めましょう」と書いてその扉に張ってみたそうです。お嫁さんとしては「姑さんに行っているのではありませんよ、家族みんなに言っているのですよ」という体裁を取った事であります。

しかしその張り紙を見た姑さんは「嫁が私に小言を言っている」と見抜いてしまい、そこで「開けたら閉めましょう」と書いてある隣に「出かける時は声を掛けましょう」という一文を足していたそうです。

お嫁さんはそれを見て自分だけが我慢をしていたと思っていたが姑さんは姑さんで自分が声を掛けずに出かけている事に足して小言を言わず我慢をしていくれていたという事に目が開かれたそうです。

私たちは親戚やご近所さんと少し距離を保ってお付き合いしている方とはお互いに努力すれば仲良くお付き合いができる事であろうかと思われます。しかし同じ屋根の下でいつも顔を合わせていると互いに慎めない煩悩と煩悩がぶつかって争いが起こってゆく、それが家庭生活の現実ではないのでしょうか。

しかしその家庭に仏様がおられたら「争い責任の半分か全部はあなたの煩悩ですよ」とご指摘をいただく事ができる事です。「いくら相手の煩悩にわがままによって争いが起こったと言ってみても、それを許せないのはあなたの煩悩だ」と呼び掛けられる事であります。その指摘により私たちは「姑が悪い、嫁が悪い、彼女が悪い、母親が悪い、子が悪い」という思い込み責任転換から解き放たれていく事ができる事ではないのでしょうか。

博多駅で元交際相手の女性を殺傷してしまった男性も「あなたは彼女の事を恨み批判をしているが、それは気にの都合や煩悩だ」と仏様の言葉を代弁してくれる方がおられたら、あそこまでの凶行までは及ばなかったのではないかと勝手な想像をする事であります。

以上が海外では無宗教の方は信用されないという内容ではないのでしょうか。

「あなた無宗教という事は、自分の煩悩を批判する教えを持っていないという事でしょ。そんな、あなたがホテルに泊まったら隣の人と喧嘩するかもしれないからお帰りください」と言われる事ではないのでしょうか。

福岡県田川郡香春町真宗大谷派西念寺

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