欲望の根底にある宗教心

全般

私の従弟の話になりますが、幼い時の口癖が「何か良い事ないかな」でした。

先月80代のお父さんのお家にお参りに行くと「住職さん。何か良い事ないですかね」とおっしゃり、全く同じ事をおっしゃったな。「何か良い事ないかな」と呟きながら歩む根性、幼い子もご年配の方も全く同じであると実感させられた事でした。

先月は1月でありましたので、お参りに行く度に「お正月どうでしたか」と聞いまわったことでした。

ある御門徒が「息子がコロナ明けで4年ぶりに孫を連れて帰ってくるととても楽しみにしてました。年末から晴れた日を見つけてせっせと人数分布団を干してあげて、気持ちよく泊まれるように準備をしていた。そして1月1日ようやく息子家族が帰って来てくれたと思っていたら、たった2時間くらいの滞在でお嫁さんの実家に行ってしまった。年末から楽しみにしていたのは、手間かけて準備していたのは何やったんやろう」と話してくれた事でした。

その数日後、別の御門徒に「お正月どうでしたか」と同じ質問をしてみました。すると「関東に嫁いでいってた娘が1歳の孫を連れて帰って来た」と話してくれたました。甲府だとさすがに数日間お泊りになられただろうと思い、「それは賑やかな楽しいお正月になってよかったですね」と申し上げると「いやいや、楽しいと思えたのは帰って来て2時間くらいで終わった。それから先は1歳の孫があっちこっちチョロチョロと動き回って、仮我させては大変やと思い、奥さんと二人で孫の後をずっと付いて回って疲れ果てた。数日後娘家族が関東に帰って行ったら気が抜けてほっとした。『孫は来て嬉しい、帰って嬉しい』てよく言ったものですね」と話してくれたことでした。

私たちは日々「何か良い事ないかな」と呟きながら生活をしておる事ではないかと思いますが。よくよく振り返ってみるとたまには良い事も手に入れて来たのではないのでしょうか。

しかし少し時間が経つとまた「何か良い事ないかな」と不満を口にしだすという事は、この思いはいくら自分の外の状況を整えても満足しない心。自分の内にある心。宗教を求める心。お念仏の教えによって初めて満たされる心ではないのでしょうか。

「何か良い事ないかな」とは一見すると欲望の吐露のように見えますが、その根を辿ると、どんな私でも十分です。良い事悪い事、嬉しい事苦しい事すべて貴重な大切な私の人生ですと人生全体に手を合わせて頂戴したいという宗教心の現れではないかと教えられていると受け止めておる事です。

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