9月上旬ことですが、お寺の隣のお家が解体され空き地になりました。
先日妻と「いくらくらいで売り出すつもりやか。最低でも200万円位かな。欲しいが手が出ないね」と話したことでした。
すると数日後、お隣の後見人の行政書士さんと解体業者の社長さんが訪ねてこられて、「買っていただけないでしょうか」と打診を受けたことでした。応対した父が「おいくらになりますか」と尋ねると。解体業者の社長さんが「坪6万円で計算すると、100坪以上あるので600万円から700万円くらいが妥当ではないのでしょうか」とおっしゃります。するとそのやり取りを隣で聞いていた行政書士さんが「いえいえ、持ち主さんは利益を出すつもりはないので解体費用の300数十万円出していただければ持ち主さんに話をしてみますが」とおっしゃったことでした。
妻とは「200万円くらいかな。手が出ない」と話していたのに、「今なら700万円から600万円するものがわずが300数十万円で買えるのか。借金してでも買わないと損ではないか」という気持ちに移り変わってしまったことでした。
私たちはいつも賢ぶって合理的に様々な判断を下しておるつもりですが、その判断の物差しは「比較」でしかなく、比較の対象が変われば判断も真逆になるということではないのでしょうか。宗祖の愚禿釈親鸞の名告りが仰がれます。 あなたが執着している判断、物差し、量り本当か?量れないご縁、量れない命をいただいているぞという呼びかけが帰命無量寿如来の呼びかけの一つではないのでしょうか。
福岡県田川郡香春町真宗大谷派西念寺
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