『大無量寿経』下巻の三毒五悪の貪欲を拝読
来月は御文に代わりご法事や葬儀で勤められる『大無量寿経』下巻の三毒五悪の貪欲に説かれている箇所の抜粋現代語訳をご一緒に拝読させていただきます。
貪欲
世の人は浅はかで心が卑しく急ぐ必要のない事を争い求める。
いつも生計を立てる事ばかりに振り回されている。身分の高い者も低い者も、貧しい者も富める者も、老いた者も若い者も、男も女も皆ことごとく金銭財貨に心を患わらす。金銭財貨を持つ者も持たざる者もいつも憂鬱に責められ安らぐひまがない。
田がなければ田が欲しいと憂い、家が無ければ家が欲しいと憂い。田が有れば田を憂い、家があれば家を憂う。なければ欲しいと憂い、有れば水害、火災、盗難におののき、奪われれば怒りを心中に結び患いから離れる事が片時もないのである。
本文『真宗聖典』五八頁
然るに世人、薄俗にして共に不急の事を諍う。この劇悪極苦の中において身の営務を勤めて、もって自ら給済す。尊もなく卑もなし。貧もなく富もなし。少長男女共に銭財を憂う。有無同然なり。憂思適に等し。屏営愁苦して、念いを累ね慮りを積みて、心のために走せ使いて、安き時あることなし。田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、また共にこれを憂う。思いを重ね息を累みて、憂念を愁怖す。横に非常の水火・盗賊・怨家・債主のために焚漂劫奪せられ消散し摩滅
す。憂毒 として解くる時あることなし。憤りを心中に結びて憂悩を離れず。心堅く意固く、適に縦捨することなし。あるいは摧砕に坐して、身亡び寿終われば、これを棄捐して去りぬ。誰も随う者なし。尊貴豪富もまたこの患えあり。憂懼万端にして勤苦かくのごとし。もろもろの寒熱を結びて痛みと共に居す。貧窮下劣にして困乏して常に無けたり。田なければまた憂えて田あらんと欲う。宅なければまた憂えて宅あらんと欲う。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物なければ、また憂えてこれあらんと欲う。適一つあればまた一つ少けぬ。これあればこれ少けぬ。斉等にあらんことを思う。適具さにあらんと欲えば、すなわちまた糜散しぬ。かくのごとく憂苦して当にまた求索すれども、時に得ること能わず。思想して益なし。身心倶に労れて坐起安からず。憂念相随いて勤苦かくのごとし。またもろもろの寒熱を結びて痛みと共に居す。ある時はこれに坐して、身を終え命を夭ぼす。肯て善をなし道を行じ徳に進まず。寿終え身死して当に独り遠く去る。趣向するところあれども、善悪の道能く知る者なし。
三毒五悪段とは
法事や葬式で勤められる『大無量寿経』下巻の三毒五悪段とは、私達の業が作り出すこの世の痛ましい在り方が具体的に説かれる箇所です。痛ましく浅ましい私達の業を指摘する事によってその在り方を超える念仏が勧められる事です。私自身も的確に言い当てられており頭を下げるしかありません。
また対合衆が凡夫の代表である阿難尊者から弥勒菩薩に代わる事より、仏法をに出遇い喜びながら歩む者に対して(も)説かれていると教えられます。
凡夫だから仕方ないと悪業をほしいままに過ごすのではなく、「小欲知足」(慎貪欲)「和顔愛語」(慎瞋恚)「恭敬三宝」が努力目標として掲げられる事です。
詳しくは『無量寿経に聞く 下巻』延塚知道(教育新潮社)をお求めください。(198頁)
延塚知道先生の最近のご法話(日豊教区四日市別院 親鸞聖人750回御遠忌法要)
また三毒五悪段に関連したご法話(大谷祖廟暁天講座 一楽真先生)
ご自身のお寺での葬儀(葬式)をお勧めしております。教えに適ったご荘厳の前でお勤めできます。
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