私に起こる、私心を超えた心

父親に笑顔で手を伸ばす幼い娘

うちの娘は三歳になりますが、お口が達者で、起きている間はずっとしゃべっています。芸能人で明石家さんまさんがおられますが、まさにあのようだと妻と話すことです。

娘があまりにずっとしゃべってくるものですから、時々私は、「韻ちゃん、お願いだから少ししゃべらないで」と言ってしまいます。

すると妻から、「お願いしなくても、そのうちあなたが話しかけても、『話しかけないで』と言われるようになるよ」と脅されます。

無邪気に話しかけてくれるのは今だけでしょうから、いっぱい話を聞いてあげればよいのに、ついつい煙たがってしまう私がいます。

そんな娘が昨日、なんとも気まずそうな顔をしながら、

「パパ、うんちが漏れた」

と言ってきました。

すると私は、「全然大丈夫だよ。綺麗にしようね」と優しく言いながらお尻を拭き、娘をお風呂に連れていきました。

普段は「お願いだからしゃべらないで」と言っている私が、娘が本当に困っている時には、不思議と優しい気持ちになって手を差し伸べてしまいます。不思議なものです。

ところが、お風呂から上げる時、私は娘に、

「韻ちゃん、将来は韻ちゃんが、パパとママのオムツを替えないといけないんだよ」

と、恩着せがましく言っていました。

せっかく優しく対応できたのだから、そのままで終わればよいのに、つい、してあげたことを利用しようとする根性が芽生えてきます。

ところが翌日、こんな話を聞きました。

「うちの父と母は、父が倒れた後、絶対に父のオムツを子どもたちに替えさせませんでした」

手間暇をかけて育てた子どもたちではあるけれど、下の世話をさせるのは忍びないと思っておられたようです。大変偉いお父さんとお母さんではないでしょうか。

一方で私は、わずか三歳の娘に、将来オムツを替えてもらう約束を取り付けようとしていたのです。愚かなものです。

しかし、そんな私なのですが、先ほど述べたように、娘が本当に困っている時には、つい手を差し伸べます。泣いていたら、抱っこしてあげなければと思い、「おいで」と手を広げます。それが習慣化されており、娘もすっと私に身を委ねるほどです。

ところが、これは私たちが子どもに差し伸べている手ではない、と呼びかけられているのではないでしょうか。

私たちの体を通して、私たちの中を生きている寿が、すなわち仏様が、子どもたちに手を差し伸べているとよびかけられているように思うのです。

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