今は、情報の多くを携帯電話から得る時代となりました。
とくにYouTubeなどの動画を見ることが、日常の一部になっています。
実は、私の妻も料理の動画をYouTubeに投稿しているのですが、先日、その動画が思いがけず多くの方に視聴され、七十万回も再生されたそうです。たいしたものだと感心しました。
一方で私は、動画ではなく法話を文章にしてブログに掲載していますが、こちらは三回ほどしか読まれないことも珍しくありません。
そのため妻からは、「単位を間違えているのではないか」「壊れているのではないか」などと冗談を言われています。
七十万回再生は確かにすごい数字です。けれども、七十万という数は数えることのできるものです。
しかし、数えることのできないほど、絶えず再生され続けているものがあります。
それが「南無阿弥陀仏」のお念仏です。
『正信偈』は「帰命無量寿如来」と漢訳のお名号から始まります。
真ん中の無量寿がアミダの中国語翻訳であります。
量ることが無い。量る事ができないという意味がアミダの日本語翻訳になります。
では何が量れないのか。大切な呼びかけがいくつかありますが、ここでは
あらゆる国々の人々、どの時代の人々も南無阿弥陀仏と阿弥陀様の智慧をおすがりして
また、そのいただいた智慧を褒め称(たた)えて念仏称(とな)えた数が無量であるといういう呼びかけです。
しかしながらこんな疑問も思い浮かばないでしょうか。
ひと昔前のお爺ちゃんお婆ちゃんたちはことあるごとに南無阿弥陀仏と口ずさんでいた。畑仕事をしていたもなんまんだぶつ。ご飯を食べていてもなんまんだぶつと。
しかし近年そう念仏の声、聞こえてこないぞ。
あらゆる国々の人々。どの時代の人々も南無阿弥陀仏と念仏を称え。その数無量である。近年整合性取れない話になったのではないか。
実は私の携帯電話には、法話の録音が二百時間分ほど保存されています。法座や法要のたびに「また聞かせていただこう」と思い録りためてきたものですが、なかなか開くことがありません。
開くのはYouTubeで、政治の話や権力闘争の話、あるいはゴルフや音楽ばかりです。つまり私たちはいつも阿弥陀様に泥を掛けながら逃げていき、世間的な事柄にしか関心が向かないのが私たちの身のならいではないのでしょうか。
しかしながらときおり、世間的な関心に飽き飽きする時もある。
または、世間的な関心が行き詰って八方塞がりになり「何のために生まれて、何をしてこの苦しみ悲しみの人生を喜んでいけばよいのか」と問いが起こる瞬間もある。
つまり頭はいつも南無阿弥陀仏から逃げているのですが、命は「我が本懐はなんだろう」「先に浄土へ帰られた方の人生にはどんな意味があったのか」と問い続けてきた、そして問い続けていくのではないのでしょうか。
私たちは念仏を遮りながら生きているが、命は絶えず阿弥陀如来に本懐を尋ね、本懐を満たされ、阿弥陀如来の智慧を褒めたたえてきた。その念仏の数は無量と言う意味で帰命無量寿如来という名號が呼びかけられていると頷くことであります。
南無阿弥陀仏
福岡県田川郡香春町真宗大谷派西念寺
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