先日、娘のお遊戯会がありました。妻や、私の両親、義父母もみな見に行ってくれたのですが、私は法事が重なり、出向くことができませんでした。「あとで動画を見せてもらえばいいか」──そのときは、そう思っていました。
ところが、お遊戯会から帰ってきた娘が、開口一番、
「パパ、来てなかったね」
と言ったそうです。
それを聞いた妻が、とっさに、
「パパは来てたよ。でも、まんまんしゃん(お参り)があったけん、ちょっとだけ見て、すぐ帰ったんよ」
と答え、あとで私に、
「その話で合わせてね」
と言いました。
すると、そばで聞いていた母が、
「もう何でも分かるようになったけん、誤魔化しはきかんくなったねぇ」
と、ぽつりと申しました。
今思えば、法事の前に月忌を2軒、少し工夫して回れば、お遊戯会に顔を出すこともできたと思います。けれども、その日は「ご法事の前に慌ただしい」「余裕をもってご法事に向かいたい」という言葉を理由に、行かなかった。そこには、都合だらけの私の思いがありました。
娘の「パパ来てなかったね」という一言に、誤魔化しがきかないのは、子どもではなく、本願に照らされた私の姿であったのだと、思わされました。
私たちは、自分の都合や正しさを、いくらでも並べることができます。けれども、その奥で、それに背ききれず、離れきれず、静かに反応してしまうところがある。
昔、恩師延塚知道先生が、
「如来と反応するものが、私たちの中にある」
と教えてくださいました。
学生時代に、池田勇諦先生から、こんなお話を聞いたことがあります。
ある夜、水たまりに映ったお月さまが、あまりにも綺麗で、思わず「これは持って帰りたい」と思い、手ですくい取ろうとした。
ところが、手を入れた瞬間、水面は揺れ、あれほど美しかった月影は、たちまち崩れてしまった。
先生は、
「月が壊れたのではない。掬い取ろうとした私の手で、水面が乱れただけだ」
と話してくださいました。
「如来と反応するものがある」と聞いたとき、それを自分のものとして掴んだ瞬間、もはやそれは月ではなくなってしまうのかもしれません。
掴もうとする、その手つきそのものが、水面を乱し、かえって救いから遠のいてしまう。
反省できたからではなく、良い心があったからでもない。
如来のはたらきに、ただ照らされ、反応せずにおれんところが、すでにここにあった──ただそれだけのことかもしれません。
今月も、その本願の中を生き抜かれ、私たちにこのご縁を遺してくださった、先に往かれた方(亡き人)のご命日に、静かに手を合わせたいと思います。
福岡県田川郡香春町 真宗大谷派 西念寺
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