茶菓と唐揚げに照らされる「自分中心のものさし」

茶菓の“ひとかけ”と空のお皿に浮かぶ「私の分は?」の吹き出し

— 自分がする時はよくて、相手がすると腹が立つ —

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茶菓をめぐる小さな出来事

御門徒さんからいただいた茶菓を妻に渡すと、「こんな美味しいものはない」「はじめての食感」と目を細めて喜んで食べていました。

私が「そんなに美味しいなら、少し頂戴」と言うと、妻は、あたかも最初から私にあげるつもりだったかのような顔をして「もちろん、あなたも食べて」と、指でつまめるかつまめないほどの、ほんのひとかけを差し出しました。

思わず私は「たったこれだけ?」と口にしました。「いつも“私の分は?”って言ってくるくせに、本当は最初から僕に分ける気がなかったやろ」と指摘すると、妻は「ばれたか」と軽い笑みを浮かべました。

唐揚げで“一本取り返される”

数日後。晩酌のあてを探していた私に、妻が残り物の唐揚げを温めてくれました。「気が利くなぁ」と喜んでいただいていると、しばらくして妻が「ねえ、私の分は?」と一言。

残り物だから妻は食べないだろうと、私はすっかり全部平らげていました。結局、今度は私が一本取られた形になったのです。

仏法が照らす“自分中心”

この小さな出来事が教えてくれたのは、人はいつも“自分中心のものさし”で物事を見てしまうという事実です。自分がする時は「仕方ない」で、相手がすると「ひどい」と感じる。その基準は、いつも自分の側に置かれています。

仏さまの光は、その“自分中心”をやわらかく照らします。人のことを笑っている時に、「それ、あなたの姿ですよ」と気づかせてくださる。茶菓と唐揚げを通して、私は自分の姿を笑いながら見せてもらいました。


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