止まれ――正しさに走る私たちへ

夕暮れの道に立つ僧侶の後ろ姿と「止まれ――正しさに走る私たちへ」の文字。お釈迦さまの言葉「止まれ」を現代に重ねるイラスト。

東京・町田市で、40歳の男性が76歳の女性を包丁で刺して殺害したという痛ましい事件が起こりました。犯人は動機を「今の生活が嫌になった。誰でもいいから殺そうと思った」と語っていたそうです。

このニュースに対し、SNSでは「甘えるな」「資質の問題だ」「みんな不安と戦っている」といったコメントが並び、7万件もの“いいね”がついていました。

確かに正論です。被害者の立場を思えば、当然の声でしょう。――そして正直に申し上げると、私もその7万件の“いいね”に深く共感していました。

けれども、ふと気づいたのです。その“正しさ”の奥には、「自分はそんなふうにはならない」という安心が潜んでいたのではないかと。つまり、知らず知らずのうちに、“罪を犯した人間”と“まっとうに生きる自分”を分けてしまう心。それは、私たちの誰の中にもある分別の心ではないでしょうか。

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アングリマーラの悲劇

ここで、お釈迦さまの時代の話をひとつご紹介します。「アングリマーラ」という若者の物語です。その名前の意味は、“指の首飾り”――なんとも恐ろしい響きを持っています。

彼はもともと真面目で優秀な青年で、バラモン僧になるために修行を積んでいました。ところが、ある出来事をきっかけに人生が狂い始めます。師の妻に言い寄られた彼は、それをきっぱり断りました。すると、プライドを傷つけられたその妻が逆恨みして、夫である師匠に嘘をついたのです。「アングリマーラに言い寄られました」と。

怒った師匠は、弟子を試すように、あるいは怒りに任せて命じます。
「悟りを開きたければ、人を百人殺してこい。その指を数珠につなげ。」

まじめなアングリマーラは、その言葉を疑うことなく“修行”と信じ、盲目的に従ってしまいました。彼は次々と人を殺し、その指をつなげて首に掛けていった――。恐ろしい話ですが、それは信じた師の言葉を疑えなかった若者の悲劇でもあります。

「止まれ」と言われた意味

九十九人目を殺したとき、アングリマーラの前にお釈迦さまが現れました。逃げ惑う人々を守るためです。

「止まれ!」と叫びながらお釈迦さまに走り寄るアングリマーラ。ところが、いくら走っても追いつけません。息を切らして「止まれ!」と叫ぶと、お釈迦さまは静かに言われました。

「私はすでに止まっている。止まっていないのはお前の方だ。」

その瞬間、アングリマーラは気づきました。自分は修行を極めよう、早く悟りたいと走り続けてきた。けれどもそれは、真理を求めたのではなく、「人より優れたい」「早く認められたい」という執着に突き動かされていたのです。

お釈迦さまの「止まれ」という言葉は、ただ足を止めよという意味ではありません。
自分が正しいと思い込み、相手を裁き、攻め立てる心の走りを止めよ」という呼びかけでした。

正しさの刃を向ける前に

このアングリマーラの物語は、決して昔の出来事ではありません。いまを生きる私たちへの、深い問いかけでもあります。

SNSの世界では、瞬時に“正しさ”の声が広がります。けれどもその正しさが、時に誰かを切り捨てる刃にもなりうる――。そして、その刃はいつしか、自分自身をも切り捨ててしまうかもしれません。

私たちは誰しも、いつか道を誤る可能性をもっています。
「止まっていないのはお前の方だ」――この言葉は、他者を断じる前に、自分の心の走りを見つめよというお釈迦さまの静かな警鐘なのです。


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福岡県田川郡香春町 真宗大谷派 西念寺

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