19日、田川青少年文化ホールにて、大谷短期大学准教授・青木玲先生をお招きし、『阿弥陀経』の講義をいただいた。
本講座は連続講座であり、今回は「声聞」の段がテーマであった。
声聞とは、本来「一生懸命に教えを聞く存在」を意味する。
しかし先生は、そこからすぐに私たち自身へ問いを投げかけられた。
私たちは本当に、人の話を聞けているだろうか。
日常を振り返れば、人の話を最後まで聞くことは案外難しい。
自分の関心のあることしか耳に入らず、都合の悪い話は聞き流してしまう。
仏教の教えもまた、同じではないだろうか。
では、私たちが人の話を聞けたり、仏教の言葉が心に届いたりするのはなぜなのだろうか。
講義を聴きながら、私はそれが自分の能力や努力によるものではなく、これまでの経験や苦労、悲しみが、知らず知らずのうちに私を「聞く身」にしてくれているのではないかと受け取った。
声聞は、懸命に教えを聞く存在である一方で、途中で満足し、歩みを止めてしまう存在でもある。
自己の救いにとどまり、その先へ進まない。
そして、「声聞が浄土に生まれる」という課題は、私たち自身が浄土に生まれるという課題と重なっているのだと示された。
ここで先生は、宗祖のある和讃の左訓を紹介された。
阿弥陀仏とは「物の逃ぐるを追わえ取るなり」
この「物」とは、人物のことである。
すなわち、仏教から逃げる人、仏教に背を向ける人をこそ、追いかけて救い取るのが阿弥陀仏である、という意味である。
では――仏教から逃げ、背いている人とは誰なのか。
先生は、この問いを縁に触れて、繰り返し提起された。
私はこの話を聞きながら、先日、ある著名な宗教学者が
「仏事は勤めなくてもよい」「お寺と縁を切ってもよい」
といった趣旨の本を出版された、という話を思い出していた。
仏教や宗教について「詳しくなること」と、それに「共感して生きること」とは、まったく別の事柄である。
共感の背景には、自分は何者なのか、何のために生まれ、何を喜びとして生きる存在なのか、という問いがあるのではないだろうか。
話を戻すと、先生は「仏教は平等を説く」と語られた。
しかし、その平等とは、辞書に出てくる意味とは少し異なる。
分け隔てをしないこと、それが仏教の平等である。
仏教が説くのは、傷つけ合い、争い合う世界ではない。
自分を中心に、上か下か、勝ったか負けたか、得か損か――
そうした価値判断に振り回されない生き方である。
では、私たちはどちらの世界を生きているだろうか。
もし本当に、そうした比較や評価に振り回されない身となれたなら、
もしかすると、お寺も仏教も「いらない」と言えるのかもしれない。
しかし先生は、最後にこう結ばれた。
どんな生き方をしていても、教えに合えば、みな念仏する者になる。
自分が救われ、念仏する者となるところに、はじめて仏教は「証明」されるのだという。
文章にしてみると、たいへん崇高で難しい講義のように感じる。
しかし実際には、日常の具体例を交え、ご自身の失敗談も紹介しながら、
講義というより、聴衆と会話をするような語り口で進められた。
だからこそ終始あたたかく、楽しく、そして深く考えさせられる時間であった。
【会場】
田川市青少年文化ホール(田川市平松3-26)
【次回のご案内】
令和8年2月9日(月)14時〜16時
会費:500円
【主催者】
真宗大谷派(東本願寺)九州教区田川組
たいへん聞きやすく、仏教が身近に感じられる講義である。
ぜひご法座に初めてご縁を結ぶ御門徒のみなさんにも、ご参加いただければと思う。
なお、西念寺では来年(令和8年)、
皆作法要ならびに盂蘭盆会、親鸞聖人御正忌報恩講の法要において、
本講義と同じく 青木玲先生を講師としてお迎えし、法要をお勤めする予定です。
- 皆作法要・盂蘭盆会
令和8年7月12日(日)午前10時より - 親鸞聖人御正忌報恩講
令和8年11月1日(日)午前10時・午後1時(お昼御斎あり)
令和8年11月2日(日)午前10時
今回のご講義と同様、
仏教がはじめての方にも大変聞きやすく、
日々の生活の中であらためて自分自身を見つめ直すご縁となる法要になることと思います。
なお、御法礼につきましては、
ご縁でお参りくださる方は、賽銭箱に無記名でお気持ちをお納めいただければ結構です。
金額や形式について、どうぞお気遣いなさらず、安心してお参りください。
どうぞ多くの方にお参りいただき、
ともに教えを聞くご縁を結んでいただければ幸いです。
福岡県田川郡香春町真宗大谷派西念寺
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