念仏者の心の趣
当流親鸞聖人の教えは、自分の心に悪い思いが起こる事を止めたり、様々な執着を起こさないようにしようとするものではありません。私達凡夫は縁に従う存在であります。怒らないでおこうと思っていても縁に触れれば怒りの思いが湧き起こって周囲を傷つける事があり、どれほど怒りっぽい人でも縁に触れなければ怒りの感情は湧き起こらないものであります。縁に従い周囲を傷つける身である事を深く痛み、なるべく慎みながら商売をしたり、奉公もしなさい。狩猟や漁労もしなさい。このような浅ましい罪業ばかりに一日中惑うている私たちごときの役立たず者をたすけようとお誓いくださった阿弥陀如来の本願であります。そう深く信じて阿弥陀如来の慈悲におすがりし、お助けくださいと思う一念の信心がまことのものであるならば、必ず如来の御たすけにあずかることとなるのです。この上にはどのように心得て念仏を申すべきかといえば、「私ごとき愚かな者が許されて安心して生活できるのは阿弥陀如来の本願力に助けられたからである。私の命がある限りはその恩徳に報謝しよう」と思って念仏申すのがよいでしょう。これを当流の安心の決定した信心の行者というのです。あなかしこ、あなかしこ。
本文(『真宗聖典』七六二頁より)
まず、当流の安心のおもむきは、あながちに、わがこころのわろきをも、また、妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよというにもあらず。ただあきないをもし、奉公をもせよ、猟、すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどいぬるわれらごときのいたずらものを、たすけんとちかいまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもうこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあずかるものなり。このうえには、なにとこころえて念仏もうすべきぞなれば、往生はいまの信力によりて、御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のp763ために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもいて念仏もうすべきなり。これを当流の安心決定したる、信心の行者とはもうすべきなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明三年十二月十八日
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