ゴルフは楽しいのに心が満たされないのはなぜ?仏教が示す揺るがぬ安心

夕暮れのゴルフコースでボールとクラブを前に静かに佇む風景。楽しいのに心が満たされないという気づきを象徴する一枚

先週、同級生三人とゴルフに出かけました。
その後の、いわゆる「反省会」と称した飲み会の席で、友人がふとこんなことを口にしました。

「十八ホールの終わりが近づくにつれて、一か月間楽しみにしていたこの時間が終わっていくのが寂しくて、そんな思いを抱きながらプレーしてしまうんだよね」

私はといえば、
「次はいつ来られるかな。それまでにもっと練習して上達して、みんなを驚かせたい」
そんな前向きな気持ちでゴルフをしていました。

けれども、その友人の言葉を聞いたとき、私は思わずはっとさせられました。
それは私の気持ちよりも、ずっと現実に即した言葉であり、どこか仏さまの教えと通じ合う響きを持っているように思えたのです。

楽しさの最中に、すでに「終わり」を感じ取っている。
その姿は、ただ前を向いて楽しさを追いかけていた私よりも、はるかに人生の実相に近いように思えました。

言い換えれば、
「いつまで移ろいゆく、はかない楽しさを追い求めているのか。本当に身を委ねるべきものがあるのではないか」
そんな呼びかけを受けたように感じたのでした。

もう一つ、こんな出来事があります。
妻の叔父であり、父の親友でもある方とのことです。

お酒を飲むこと、ゴルフをすること、麻雀をすることが大好きで、
いわゆる男の趣味を存分に楽しんでこられた方です。
人生を楽しみ尽くしているようで、私はどこか羨ましく感じていました。

ところが、先月久しぶりにゴルフの打ちっぱなしでお会いしたとき、
その方がふいに、
「そんなにゴルフって楽しいか?」
と尋ねてこられたのです。

私は思わず、「とても楽しいじゃないですか」と答えました。
しかしその問いは、単なる雑談ではなく、
「本当に心の底から楽しいと言えるのか」
「それで人生をまっとうしたと言えるのか。それ本当の生きがいになっているのか」
そう問いかけられているように感じられました。

つまり、どれほど趣味を満喫し、明るく楽しく生きている人であっても、
ふとした瞬間に、
「楽しんだからといって、いったい何になるのか」
「楽しい時間は、結局終わっていくではないか」
という事実と、正面から向き合わされる時があるのです。

そしてその瞬間こそ、
「趣味では、あなたの人生に決着はつかないだろう。真理を求めよ」
と、如来から呼びかけられている時なのではないでしょうか。

では仏教は何を示すのか。
それは、移ろいゆく喜びに振り回される私に、揺るがぬ安心があることを知らせる教えです。

福岡県田川郡香春町真宗大谷派西念寺

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