あるご門徒の七回忌に想う ― 葬儀に込められた「自由」への願い
昨日、あるご門徒の七回忌にお参りいたしました。 思えば六年前のご葬儀の折、故人が病床に伏しておられた時のことを、家族の方からうかがいました。 ある日、窓の外を自由に飛び回る鳥を眺めながら、
「自分もあの鳥のように自由になりたい」と語られたそうです。 それは、病院のベッドに身を縛られた日々の中で、
「この身から解き放たれたい」という切実な思いの吐露であったのでしょう。
葬儀に込められた「自由」への願い
私は初七日の法要の際に申し上げました。 それはお一人の願いではなく、老い・病・死・別れという苦しみ悲しみから解き放たれたいという願い―― すなわち「自由になりたい」という思いは、すべての人間に共通する悲願ではないでしょうか。 そして、その束縛を超え、真に自由となられた方を「世自在王仏(せじざいおうぶつ)」とお呼びするのです。
真の自由とは「縁に生かされる自由」
故人の「自由になりたい」という願いは、実は私たちみんなの胸の内にも響く願いであります。 けれども、仏の教えに照らしてみると、真の自由とは「何ものにも縛られないこと」ではなく、 「すべての縁を受け入れ、生かされていく自由」であります。
思いどおりにできない現実、病や老い、別れという避けがたい出来事。 それらを拒むことなく、
「この身のまま、阿弥陀さまの光の中に生かされている」――そういただくところに、 人間の計らいを超えた大いなる自由が開かれてまいります。
苦しみを除くことが自由なのではなく、 苦しみを抱えたままでも、如来のはたらきに包まれて生きる。 その道を示してくださるのが、仏の“自在”というはたらきなのであります。
葬儀・法要を通して聞く教え
葬儀や法要の場は、亡き方を偲ぶとともに、 「いのちとは何か」「生きるとはどういうことか」をあらためて問い直す尊い時です。 故人の願いを通して、私たちが今、生かされているということを味わわせていただきます。
どうぞご縁のある方は、
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福岡県田川郡香春町 真宗大谷派 西念寺

          
