本日、香春町殿町の野口さん方にて、壽人さんのご法事をお勤めいたしました。施主は80代前半のご兄弟4名。幼いころから胸に残っている壽人さんの面影を、しみじみと語ってくださいました。
ご兄弟のお一人がまだ生まれたばかりの頃、壽人さんはいつも気にかけてくださり、「義姉さん、これでこの子にミルクを買ってくれ」と言って、ミルク代を折にふれて手渡してくださっていたそうです。そして、まだ乳飲み子だった妹さんを胸に抱き、「かわいいね」と静かに微笑んでおられた姿が忘れられない、と語られました。もののない時代に、そんなふうに心を寄せてくれていた優しさが、今も胸に残っているとのことでした。
また壽人さんはご自身のお母さんにも、「母ちゃん、秋田鉱山に就職が決まった。給料は全部母ちゃんにあげるから、安心してくれ」と話していたそうで、家族を思う心の深さがよく伝わってまいりました。
家族を支えるために、単身、遠く秋田の鉱山へ働きに行こうとしていた壽人さん。その決意の深さに、壽人さんの人柄がにじんでいるように感じました。「給料は全部母ちゃんにあげるから」と語るその姿は、家族への思いに満ちた、本当に優しい青年であったのだと、お話を伺いながら胸が熱くなりました。
しかし、その壽人さんは戦争に取られ、終戦後はシベリアに抑留されてしまいます。
戦後になると、各地から引き揚げてこられる方々の名前が、毎日のようにラジオで放送されていたそうです。当時は今のように連絡手段がありませんから、家族はその放送を聞き逃すまいと、息をひそめるようにラジオの前に座り込んでいたといいます。
壽人さんのお母さんも、まさにそのお一人でした。
「今日こそ名前が呼ばれるのではないか」
「次の便で帰ってくるのではないか」
その願いを胸に、毎日欠かさずラジオに耳を澄ませておられたそうです。
しかし、ある日届いたのは「シベリアで亡くなられた」という知らせと、お骨でした。
その訃報を前に、壽人さんのお母さんの悲しみは、どれほど深かったことでしょう。「給料は全部母ちゃんにあげる」と言ってくれた、お母さん思いの息子。その優しい息子を戦争で失い、その願いごと奪われてしまった悲しみは計り知れない、とご兄弟の方は静かに語ってくださいました。
その後、お父さんは壽人さんが大切にしていた蓄音機を処分されたそうです。息子の面影がそこかしこに宿っていて、辛くて見るに堪えられなかったのかもしれません。燃やされた蓄音機の中からは、青い万年筆で丁寧に綴られた文章がいくつも現れたといいます。子ども心に、「あぁ、おじさんは文学が好きな人だったんだなぁ」と感じたと、ご兄弟は思い出深く語ってくださいました。
そして今回のご法事は、こうした長い思いの延長にあります。
「祖父母が西念寺さんにお願いして供養は勤めてきたと思う。しかし、もののない時代にミルク代を折々に気にかけ、妹を“かわいいね”と静かに抱いてくれていた優しい叔父の供養を、私たち自身の手でも改めて勤めたい」――その願いから、今日のご縁となったことをお話しくださいました。
壽人さんが家族に向けてくださった優しさの奥には、阿弥陀様の大悲のはたらきが静かに息づいていたのではないでしょうか。私たちはつい、周囲に条件を突きつけ、「合う・合わない」で人を測り、合わないと見れば切り捨てて歩んでしまう弱い存在です。しかし今日のご法事を通して、壽人さんのような、条件を越えて人を包み込むあたたかさに触れさせていただきました。次の世代に、私たちもまたその優しさを手渡していきたい――そう深く思わされるご縁でありました。


