運が良い人と悪い人

西念寺の御文箱と蓮如上人 法話

とある大学生が就職活動中に面接官から「あなたは自分が運が良いとおもいますか」と尋ねられたそうです。

想定外の質問に慌てたそうですが、「『日本に生まれて、人に恵まれてきたので運が良い方と思います』と応えたものの、もっと良い応答があったのではないか」との質問でありました。

それに対してある方が「大変良いお応えだったと思います。もしあなたが会社の経営者であったとして、従業員さんが朝、遅刻をしてきて『社長、すみません。道が混んでいて遅刻しました』と言われたら腹が立つでしょ。なんであと10分早く家を出ないのかと叱るでしょ。すなわち『運が悪い。運が悪い』と言う方は自分に起こってきた出来事はいつも周りに責任転換しているのではないのでしょうか。よって『運が良いと思います』と応えたあなたは面接官から大変好感を得られたと思いますよ」と応えておりました。

もともとこの質問はパナソニック(松下電器)の創業者の松下幸之助さんが自社の最終面接でされていた質問だったようです。この質問に対して「運が良い」と応えた方のみ採用し、「運が悪い」と応えた方はどれだけ成績が良くても不採用にしていたようです。

松下幸之助さん自身も自分は運が良いと思われていたようです。生家は裕福な家ではなかったようですがそのお陰で様々な事を工夫して実現させてゆき、技術者として育てていただいた。ある事に関してできない事があったので、人にお願いする事、人に動いてもらうにはどうすれば良いかという事を学ばせていただいた。その全体が大変運に恵まれていたと受け止められていたようです。大変素晴らしい心構えであり見習わなければならないと感じる事ではないのでしょうか。

しかし一方で「自分は大変運が良い」「自分は大変恵まれていたなぁ」と生涯思い続けるのは至難の業ではないかとも感じる事でもあります。

恐らくこの大学生が面接に受かり会社に就職する事ができたら「なんて自分は運が良いのだ」と喜ぶと思われます。そして初めてお給料をいただく時は「こんなにもいただいて良いのですか」と喜ぶと思われます。しかしそのように就職初任給を喜んだ方であっても数年会社にお勤めすると、「あんだけこき使われてたったこれっぽっちか」と不足の方に目が向き始めるのではないのでしょうか。(一部恩師の表現を参考に)

人生は生老病死のステージの上にあります。いくら社会的に成功した方であっても晩年は老病死につかまり萎んでゆく人生であります。きつい表現を取れば愚癡と文句で終わってゆくのが人間の偽れざる現実の姿ではないのでしょうか。

その現実の中で「大変恵まれた人生でした。もったいないご縁を頂戴いたしました。大変運が良い」と言える者になるためには人生の宗、目的が仏様の知恵にひっくり返される所に起こるものではないのでしょうか。

人生の宗、目的が自分の思い通りになる事、苦しみ悲しみが無くなる事と思い込んでいる間は先述したように晩年は老病死に捕まり愚癡と文句に染まってゆく事ではないのでしょうか。

しかし人生の宗、目的、我が本懐は苦しみ悲しみを通して視野を広げられ深められ、人としてお育てをいただき、仏様のおっしゃる通りであった、南無阿弥陀仏をいただくための修行の場が私の苦しみ悲しみの人生であったと頭が下がる所に、愚癡と文句の中に「運が良い、もったいない、ありがたい」との感謝が生まれてくるのではないのでしょうか。

福岡県田川郡香春町真宗大谷派西念寺

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