摂取してすてざれば阿弥陀と名づけたてまつる

御門徒へのお知らせ

先日は永代経法要、花まつりにたくさんお参りいただきありがとうございました。また役員の方々には朝からお昼の用意に尽力いただき重ねて御礼申し上げます。

さて、先月の事になりますが、晩酌のつまみに刺身を買って帰りに奥さんに「これ冷蔵庫で冷やしておいて」と渡しました。すると奥さんが笑いながら冗談で「分かった。全部焼いておったら良いんやろ」と申しました。

私はこりゃぁ負けられんなと思いながら「今日は一人で居酒屋にでも行ってこうかね」と言い返すと。奥さんが「私をおいて一人で行くんですか。私の事を愛してますか」と申してきました。それに対して私が、「いやあなたの方こそ私を愛してないやろ。どこに愛している人の刺身を焼く人がおるかい」言い返した事です。

これ私、やりとりに勝ったかなぁと思っておると奥さんがさらに「あなたは愛の意味を知っていますか」と仕掛けてきた事です。それに対し私は「あなたと結婚して、ますます愛の意味が分からなくなりました。教えていただいても良いですかね」と皮肉を込めて申してみますと。

奥さんがこんな事を言ってくれました。「あなた愛とは無条件に相手を受け入れる事を言うのではないのですか。あなたは愛を知らずに結婚したんですか。無責任ですね」と言われ一本取られた事でありました。

冗談でやり取りをしておった事でありますが、後で振り返ってみるとこれなかなか大切な事を問うてくれているなぁと思い返した事であります。

「周囲の方々を無条件で受け入れるという事ができておるか。」

「自分に起こってくる様々な出来事を無条件に尊いご縁と引き受ける事が出来ておるか」

と南無阿弥陀仏はいつも私たちに問いかけてくださっているではないのでしょうか。

親鸞聖人は『和讃』こんな歌を詠んでおられます。「攝取してすてざれば 阿弥陀と名づけたてまつる

私たちはついつい条件を立ててしまってこの人はいる、この人はいらんと日々取捨選択を繰り返しておるのではないのでしょうか。

また自分の都合に合う事は善いご縁と言って引き受け、都合に合わない事は悪いご縁、こんな事になんで遭遇しなければならなかったのかと棄ているのではないのでしょうか。

そして最後は自分が建てている条件からだんだん自分の身が命が合わなくなりつまらんもになったといって自分をも捨ててゆく、まさしく自暴自棄になってゆくのが人間の晩年の歩みではないのでしょうか。

しかし自分自身(自力)から捨てられる私たちを見捨てず無条件に受け入れて下さるはたらき(他力)、知恵、慈しみを阿弥陀と呼ぶのだ。

むしろ自力(自我)から捨てられる厳しい状況に置かれる事によっていよいよ新たな視点が開け、人生が深まるのではないか。いよいよお念仏がいただけるのではないかと呼び掛ける親鸞聖人のご和讃をご紹介して今月のお話と変えさせていただきます。

福岡県田川郡香春町 真宗大谷派西念寺

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