阿闍世のために涅槃に入らず。親子喧嘩を縁にして

先日、ある有名人の親子トラブルがニュースになっていました。

その報道を見たとき、私は思わず「もしあれで逮捕されるのなら、子どもを叱るたびに手が出ることもある我が家など、何度捕まっても足りないではないか」と考えてしまいました。

しかし、わが家の子どもたちを最も愛し、誰よりも手間暇をかけて育てているのは妻です。そして子どもたちもまた、その愛情を感じているからこそ、甘えたり、わがままを言ったり、時には反発したりするのでしょう。親子の関係とは、そのような面を持つものではないでしょうか。

実際、そのニュースでは、通報した娘さんが父親の連行される姿を見て、「とんでもないことをしてしまった」と泣き崩れたと伝えられていました。

叱られたその瞬間は頭に血が上り、「こんな父親はいない方がいい」と思ったのかもしれません。しかし、いざ現実となったとき、自分が受けてきた親の愛情の大きさに気づかされたのでしょう。

私はこの話を聞きながら、『観無量寿経』や『涅槃経』に登場する、インド・マガダ国の阿闍世王子の物語を思い出しました。

阿闍世王子は、その当時、自分こそが正しいと思い込み、父である頻婆娑羅王を殺害し、母である韋提希夫人をも殺そうとしました。しかし後になって冷静さを取り戻すと、「自分は何ということをしてしまったのだろう」と深く後悔し、心身を病んでいきます。

阿闍世王子は正義や理屈を振りかざし、父親を否定しました。しかし父親は、世間の理屈や善悪を超えて、ただ息子を愛し続けていたのです。幼い頃から受けてきたその無条件の愛情が、阿闍世王子の身に深く染みついていたのでしょう。

さらに経典には、父王が亡くなった後、天空から声が聞こえたと説かれています。

「たとえ親殺しの罪を背負ったあなたであっても、釈尊は決して見捨てない。どうか釈尊を訪ね、その救いに遇ってほしい」

自らが殺した父からなおも注がれる慈しみの言葉に、阿闍世王子は後悔の念を深め、ついには気を失ったと伝えられています。

その後、阿闍世王子はお釈迦様のもとを訪ね、救われていきます。

そのときお釈迦様は、「阿闍世のために私は涅槃に入らない」と語られます。すなわち、阿闍世のように重い罪業や深い慚愧を抱えた者を、永くこの世に留まり救い続けるという願いを示されたのです。

しかし私たちは知っています。お釈迦様は歴史上、実際にはお亡くなりになっています。

では、「涅槃に入らない」とはどういうことなのでしょうか。宗祖親鸞聖人がこの文を『教行信証』に引文された意図はどこにあるのでしょうか。

これは私たちが身近な方とのお別れをどう受け止めていくかということと重なります。

話を元に戻しますと、阿闍世王子の話も、先の親子のニュースも、決して他人事ではありません。

私たちは親を物理的に殺したわけではありません。しかし心の中では、「うるさいな」「放っておいてくれ」と何度も親を排除してきたのではないでしょうか。それが私たち親子の歴史でもあります。

そして今度は自分が親となり、子どもから反発を受けると、「一人で大きくなった顔をしていから」と不満を口にする。

もし私たちの親がその姿を見たなら、「あんたも同じことをしてきたじゃないか。親子よく似ている」と笑われるかもしれません。

「そのような痛ましい在り方、いつまで続けるのか。そのような在り方を超えていきなさい」という呼び声が命の底から迷いの自我に呼び掛けてくる。

その呼びかけこそが、「阿闍世のために涅槃に入らない」と語られたお釈迦様の真意ではないでしょうか。

お釈迦様は肉体としては滅しても、その大悲の呼びかけは滅することなく、今も私たちの自我に向かって働き続けている。そのことを、阿闍世王子の事件、今回のニュースは教えてくれているように思います。

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